話の方向性は大きく違いましたが。
幸福の部屋 後編
レストラングルメのラストオーダーの時間にトリコが現われると、従業員一同青ざめ、何故か料理長自らオーダーを聞きに来た。
「今からなにが食べられる?」
「予約のないトリコさまに応じられる料理はございません」
小松はにこやかに言った。
「後三十分ほどお待ちいただけるなら、ぼくの部屋にお招きします」
「ラッキー。バーで待ってるぜ」
めったに招かれない小松の部屋に誘われて、トリコは指を鳴らして喜んだ。
「なにかおつまみを用意しますよ。最近はトリコさんに食べてもらうのを楽しみにするスタッフもいますから、創意工夫のおつまみなら喜んで作るでしょう」
「でも最初はおまえのがいいな。寝かすほどに熟成される寝牛(ねぎゅう)がまだあるならスライスしてくれ。プラチナレモンとハーブのソースがうまかった」
「ありがとうございます」
小松は礼を言うと厨房に戻った。扉一枚隔てた向こうはこれからちょっとした戦場になりそうだ。
トリコがつまみを頼んだため、支度に追われた小松は約束の時間ぎりぎりになって厨房を抜け出せた。
「遅い」と自分のせいでありながらトリコは堂々と文句を言う。
ふたり連れ立ってバーを出た。トリコが食べた分をレジで払うのは高額すぎるため、会計の方法は特殊だ。
はじめてトリコがグルメレストランで食事をしたとき(虹の実のお披露目だったせいもあるが)、一人分とは思えない食事の代金を現金で渡して支配人は目を回した。以後銀行から自動引き落としでトリコはグルメレストランで食事をしている。サインをするだけで金額の欄をトリコは見ない。IGO絡みの依頼には高額を要求するトリコだが、自分で卸す食材の売値や財布の中身は基本的に無頓着だ。でも、どんなにお金を積んでも手にはいらないものがあるのをトリコは知っている。金が役にたたないときのほうが多いのも知っている。例えば美味なる食材。そして小松。彼の料理に対する姿勢が好きだ。今もトリコがバーでつまんだ料理の感想を、意見の参考のため真剣に聞いている。彼のひたむきな情熱が好きだ。煩わせるものもない状況で料理に専念してほしかった。純粋な気持ちだとトリコは思うが、何故かやましさがついて回る。
トリコが小松の借金を肩代わりしても懐は痛まないが彼は認めなかった。意見を無視してでも金で解決しようとした下心に、気づいた小松が軽蔑してもおかしくない。
「彼女がお金を返してくれました」
小松がトリコの負の感情を察したかのようなタイミングで言った。
「トリコさんとココさんが動いたんですよね? 素人が株で短期間に成功するなんて話はおかしいです」
小松は淡々と話を続ける。
「ぼくはそんなに頼りないですか?」
「そうじゃない」
トリコは叫んだ。自分でも驚くほどの反応のよさだった。
否定はしたが、小松の表情をみれば彼が納得してないのはわかる。
「違うんだ、小松、おれは」
借金はきっかけにすぎない。引っ越すのを阻止したいと思ったから、強引にでただけだ。それをわがままと呼ぶか、甘えていると判断するかは微妙なラインでトリコ自身も曖昧になる。自慢の嗅覚も役に立たない。
小松はトリコを見上げて辛そうに笑った。
「ぼく、彼女にふられたとき、ぼくがふられたんだから彼女には幸せになってほしいと思ったんです。でも再会したとき彼女は幸せじゃなかった。だから幸せなぼくが助けてあげなきゃって思いました」
「傲慢だな」
トリコは優しさとは表現しなかった。小松も冷静に受け止める。
「ええ、傲慢です。傲慢になるくらい幸せだから、自分がトリコさんたちを傷つけるなんて思わなかったんです」
ごめんなさい。
震える声で小松が謝った。声が、空気が、心が、小松の謝罪をトリコに伝えた。見下ろす彼は、いつもより小さくみえる。
「彼女がお金を返してくれたとき、お金なんかより、これでトリコさんたちと元通りになれるかもしれないって期待しました。彼女の幸せなんて少しも考えなかった自分がいやになりました。浅ましくて小さくて、こんなぼくにふたりは気づいて、愛想尽かされるかもしれないと本気で思って怖かった。だからレストランでトリコさんを見たとき、信じられなくて息が止まりそうでした」
言葉につまりながら小松は喋った。動揺と不安、後悔がいりまじった声だった。ばかな真似をしたと小松に腹を立てたし、腹を立てた自分を間違っているとはトリコは思わない。だが今も腹を立てている訳でもなかった。後悔もやましさも、誰の胸にもあるものだ。むしろ、小松が泣き言を言ってくれたことのほうが嬉しい。
いつの間にか立ち止まった小松を、トリコは振り返る。暗くて表情が見えない。ココのように電磁波が見えなくても、小松の感情は伝わってきた。慰める器用な言葉は知らない。だからトリコは小松の髪を撫でた。
「信じてほしい。なにがあってもなんて、怒って部屋をでたおれが言える台詞じゃないけどよ。またおまえの部屋にいきたい」
「狭いですよ?」
「密着できるいい部屋だ」
「古いですし」
「壊さないよう気をつける」
「好きです」
「知ってる。おれもだ。だから顔を見せてくれ」
ねだる声が甘くなる。小松が袖口で目元を拭い、伏せていた顔をあげた。
「大好きです、トリコさん」
顔をあげてはっきりと言う小松が、トリコは好きだった。
弱くはない。わかっていても庇護下におきたい衝動が湧き上がる。小松を見くびっているのかと考えた時期もあったが、今回のことでわかった。これは独占欲だ。
アパートの近くで、トリコは覚えのある匂いに気づいた。
「おかえり」と小松の部屋の前に立っているのは、今回一番活躍したココだ。
「仲直りできたみたいだね」
小松を見てココが微笑む。独占欲を持つ身としては、ココは一番のライバルのはずだが、トリコにとって彼は対象外だ。こうしてトリコとのことを心配して様子を見にくるあたり、ココも同じように感じているのだろう。
小松はココに「ごめんなさい」と謝った。
「小松くんがトリコと仲直りできたなら、いいよ、気にしなくて」
傍で聞けば意味不明だが、三人なら通じ合える不思議な言語だ。
ココが今まで姿を現さなかったのは、小松との気まずさをトリコが解消するまで待っていたからだ。
「彼女は大丈夫だから。一度どん底をみて這い上がれたひとは強いよ? きみに直接お金を返せるひとなら心配はいらないと思う」
彼女と一番コンタクトをとっていたココが言うのだからトリコは信用した。今回のことがきっかけで、その女性が幸せになれる未来ができたならいいと思った。
(ああ、こういうことか)
急にトリコは納得できた。自分が幸せだからひとの幸せの手伝いをしたいという気持ち。小松ほどの極端さはなくても、近いものをトリコは感じた。
「あがってください。なんのおもてなしもできませんが、ぼくはまだふたりと一緒にいたいです」
玄関を開けて小松がふたりを招いた。最後にこの部屋を出たときの寒々しさをトリコは思い出した。再び、彼が部屋にあげさせてもうら日は来ないと危惧した。
「嬉しい、嬉しい」と感情が心のなかでダンスをする。
トリコはココを横目で見た。小松のストレートな誘い文句に蕩ける優男は、トリコの視線を感じて笑みを返した。
「おれたちはおまえに賄ってもらうために来てる訳じゃないぞ」
「ぼくを巻き込むな。ぼくは小松くんが招いてくれるなら砂漠のまんなかでも招待に応じる」
ココが迷惑だといわんばかりにトリコにつっこんだ。
「ほお、おまえは小松の料理に興味がないと?」
「誰もそんなふうに言ってないだろ」
ふたりの応酬が玄関先で繰り広げられる。
「近所迷惑なのでやめてください」
小松が小声でたしなめた。トリコとココは隣家がないため「近所迷惑」の発想がない。
「大声が近所迷惑か・・・」
唸るトリコに反省したと思った小松はうなずくが、ココは「品がない」と青い頭を叩いた。再び小競り合いになりそうな雰囲気に小松が慌てて部屋にふたりを押し込む。
閉じられたドアのむこうからは幸福が溢れる。
終わり